ここにいるようでいない人がいっぱい








きょうは大好きなぞろ目DAY。11/1日。
なのに、11:11分を見逃し、気づけば11:12。
あ~あ。やっちまったぜ。と思いながらふとブログの文字カウントを見たら
1111
でした!!

さて。今日はここにいるようでいない人の話を。
自己啓発、精神世界系の本とか読むと、
今この瞬間を生きる。
っていうのは共通の大きなテーマだと思うんですが、
今この瞬間を生きるって、理解するのはなかなかむずかしい。

だれもが、「今を生きていますけど?」。と思ってると思うんです。
でも、たぶん、すごく意識しないかぎり、
じつは今を生きている人ってすごく少ない。
今を生きるとは、未来への不安や心配や過去への後悔
が一ミリもまったくない状態のことだと思うんですけど
人間ちょっとでも気を抜くと、気づけば、
漠然とした未来への不安や心配、そして過去への後悔の中で生きてる。

>>>仕事がなくなったらどうしよう、
>>>あの人にあんなこと言っちゃった、言われちゃった
>>>仕事でやらかした失敗、
>>>なんで思い通りにならないんだろう
>>>なんであいつばかり上手くいくんだろう、
>>>わたしの中の代表選手は次の波はいつ来るんだろうとか(笑、
>>>老後や将来の自分への漠然とした不安とか。

体はここにいるけど、頭の中は、いつも未来か過去にいることありませんか。

とか言ってるわたしも、今この瞬間しか存在しない。と言われてもその意味は漠然としかわからず、
ここ何年も、「今しか存在しない」の意味を考え続けてるんですけど、突き詰めると、
過去への後悔は、その過去の積みかさねで出来あがった自分を受け入れられていないこと、
未来への不安は、けっきょくは死への恐怖に集約されるんじゃないかと思ってます。

わたし個人としては、過去への後悔よりも、圧倒的に未来への不安、
とくに経済的不安が大きいタイプだったと思いますが、
お金なくなって飢え死にするところまで妄想してみても、
ホームレスになれば周りの家族や友達が助けてくれるだろうし、
しばらく頭の中で不安グルグルをやってみると、
最終的には、
“何ををくだらない妄想に時間を割いているんだ。つうか、今死んでねーし。”
という結論に達し、ぐるぐるから抜け出す。を繰りかえしてました。

今何時?
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よいことも悪いことも自分に必要なことしか起きないことがわかってきた今、
数年前にあったあの不安はまったくないと言っても過言ではない感じ。
以前にくらべると今この瞬間に存在している時間は比較的増えていると思うんですが、
今にいながら、周りを観察すると、体はわたしの目の前にいるけど、
心がここにいないひとがいっぱいいる
ことにすごく気づきます。

目の前にいる相手はわたしと向かい合って話をしているけど、
相手の目をよくみつめると、目がここにいないんですよー(´;ω;`)。
すごく不思議な感覚に陥ります。
(あらら。この人ここにいないよ。どこいってるのー!)
みたいな感じで、思わず、肩を叩いて存在確認したくなる。

だれかと楽しい食事をしていても、
心のどこかで明日のことを考えていたり、
別の人のことを考えていたり、
昨日のことを思い出していたり、
体はそこにいるけど、心はいない。
最近そんな人にやたらセンサーが反応するので、
だから、楽しい食事のはずなのに、
なんだか残念だな、と思ったりすることもあります。

とりあえず今死んでないのに死ぬ心配をするなんて意味のないことをやめて、
どれほど思い出したくない出来事も、今の自分を作ってくれたと感謝して、
何が起きても、すべては自分が成長するためのチャンスでしかない。
と考えることができれば、
生きるその瞬間を完全に味わい、楽しみ、生ききることができるようになって
その完全な瞬間が永遠に連続していくようになると、
それがまさに今を生きるってことなんじゃないかと思う
わけ。

きょうの締めは、“今を生きる”が私の中で一番腑に落ちた話を。
テレビを見てたら、アフリカの難民キャンプで暮らすお母さんが出てきた。
ガリガリに痩せたお母さんが、もっとガリガリに痩せ細った赤ちゃんにおっぱいあげてるんです。
取材班が、「ここでの生活は大変ですか?」って聞いたときのお母さんの答えが神でした。
「お金もないし、家もないし、明日食べられるかどうかもわかんないけど、
きょうはこの子が全然泣かないからあたしゃサイコーの気分だよー!!」

って。
今を生きてる代表選手でした。