「好かれたい」のために犠牲にしてることがデカすぎる。








「嫌われる勇気」という本がありますが。わたしは、勇気も何も、嫌われようが絶賛どうでもいいので読んでいませんがどんな内容なのかちょっと気になる。読んだ方いらっしゃいますか?

こんちわ。昨日夕方くらいから喉が痛くて、わたし、喉が痛いとか100年ぶりでびっくりしたんだけど、起きたらさらに悪化してて、ギョギョギョ〜。だったんだけど、数時間前にホメオパシー適当に放り込んでみたら、95%治ったナウ。今回放り込んでみたのはなんとなくファーランフォスと、痛みが左から右に移動したのでラケシス。ホメオパシーおもしろい。っていうか、ヒット率高いわー。わたし。

そうそう。「嫌われたくない」=「好かれたい」ここ数日のキーワードで、わたしはほんとに、好かれたいなんて1ナノメートルも思ってない人なので、何回か書いてるけど、改めて、その「好かれたい」思考の原理を分析してみたくなりました。

宇宙新年の大晦日、友達がこんなこと言ってきた。
「人に誘われるのがいやでしかたないのが最近の悩みだったが、何がそんなにイヤなのかを考えたところ、自分のやりたいこと以外やりたくないっていうのが本音だが、人からのせっかくのお誘いを断って、自分の好き勝手にやってたら、周りからだれもいなくなってしまうんじゃないか。という不安、恐れが根底にあるのがわかった。だから、誘われて行きたくもないのに断れないことで、イガイガしてました」

感情分析のすばらしいサンプルだ。誘われて断ることができず、自分の意に反して行ってしまう自分もイヤならば、誘われると毎回断りたいのに断れないジレンマに陥る。なぜなら「嫌われたくない」から。だから誘われるだけで、変なスイッチはいるようになった。って感じでしょうか。

そんな話をして数日後、同じような話を聞いて、今日も友達とそんな話になったので、あーきっと世の中そんな人ばっかりなんだろうなと思ったと同時に、わたしはいったいいつどこにその思考を捨て去ってしまったのか記憶にさえない。


わたくしは、いつの頃からか、「(嫌われたくないから)本音を表現するのはやめよう」という感覚がすっかりなくなってしまいまして、とにかく自分にウソつかずに生きる。が最大のテーマなのですが、逆パターンな人の方が圧倒的に多そうですね。特に日本人って文化的、民族的に他との協調を重んじるからか、他人の表現に自分を合わせる人の方が多いと思います。

ところが、自分の欲求を抑えてまでせっかく合わせてやったその他人も、結局本当の欲求を表現していない場合が多いので、そもそも本音じゃない人に、本音じゃない対応してるという、もはやフェイク感ド満載な関係で人間関係のほとんどがが成り立ってる。他と調和することはとても大事だと思ってるけど、それはもはや調和でもなんでもなく、衝撃のウソの塗り重ねでしかない。

わたしからは、「好かれたい」、「いい人と思われたい」、「嫌われたくない」という感覚がどっかいってしまった。ほんとに、世界中の人に「オマエ最悪!」と言われても、本当の自分をつねに表現しつづける方が気持ちいい。快楽主義者なんで。

わたしが本当の自分でいることで、相手がどんな反応するかはその人の勝手だし、そんなこと知ったこっちゃない。私の言動で、相手が怒ったり傷ついたりするのは、わたしにとっては単に相手の問題でしかない。その相手が長年にわたって刷り込まれてきた、オリジナリティあふれすぎる信念=「ワシにしか通用しない常識」を基準に、勝手に良い悪いの判断下してるだけで、私にはその判断は関係ない。だから、どうでもいい。わたしの判断基準とは違うんだから仕方ないのだ。「あんたは薄情だ」と昔からよく言われてる氣がするが、わたしを薄情だと判断するのもアンタの問題だから、知らねえずら!

ま、人間として、調和を乱さないよう最低限のルールは守るようにしてるつもりだけど、その最低限の基準もわたし基準でしかないから、正直意味はない(笑)。

自分に正直に生きると、周りにもそういう本音人間しか寄ってこなくなるので、正直対正直の関係が出来上がるようになり、その上で、こいつはアホだとか、最高なヤツだという判断が下せるので、人間関係がややこしくならない。ウソがないからシンプルだわ。

しかし、なんでみんなそんなに好かれたいんだ?!
ぜんぜんわかんない。どーでもよくね??!「好かれたい」がために、本当の自分を表現できないなんて、犠牲が大きすぎるわ!いや、マジで。世界中の人が、「オマエきらい!」って言っても、自分をそのままに生きてる自分が、「ワシサイコー!!!」ゆうてれば、それでええんちゃうん?と思うわ。