怒ってよいのだ。健全に怒って生きるのだ








みんな、怒ってますかー。怒りやイライラを手放すのはなぜにこんなに難しいんだ。わたしの今生の最大のテーマのひとつは、まちがいなく、「怒りとのつきあい方」で、ここ数年つづけてきた自己分析のおかげで、怒りの大部分と折り合いをつけることができた。

怒ってる自分を否定しなくなったし、怒りを悪いもの扱いしなくなったし、怒りたいときは怒り、そんな自分を斜め上から、(んー。また怒ってるね!)って淡々と俯瞰できるようになったので、わたしの潜在意識は、自分が怒らなければならないシチュエーションを自ら投影することはほぼなくなった。

けど、それでも自分以外の誰かが私宛てではないにしろ、勝手に怒り、イラついてるのをいまだによく経験する。その人がその怒りを表現しようがしまいが、わたしには残念ながら瞬時に分かってしまいますので、ホント、やだ。そのたびにその人の怒りに引っ張られて、一緒になってその怒りを感じてしまっていちいち疲れる。だから、人と会いたくなくなるんだけど。

怒りを内側に隠し持ってる人の、あのなんともビミョーで粗雑なエネルギーはほんとに居心地悪いものなんですのよー!わたしもかつてあのようなエネルギーをビンビン放出してたのかと思うと、申し訳ない&お恥ずかしい気持ちでいっぱいでございます。

人の感情も自分の感情も、すべての感情エネルギーは本来海のようにつながってる。エネルギーに境界線はないが、肉体という物理的境界線があるから、あの人は怒ってる、わたしは怒ってるって別々のモノな気分だけど、ほんとはお前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ。感情の世界はジャイアンの世界だ。だから、誰かの怒りが伝わってきたら、めんどくさいけど、とりあえずそれも自分のものとして受け入れて手放す。

けど、ほんと疲れるわけ。ほとんどの人にとって、怒りを受け入れるのはたいへんな作業っぽい。怒りも喜びも、エネルギーの周波数がちがうだけでただの感情じゃん。地球人にはこれがすべてあって当然なんだけどねえ。喜びもうつくしければ、怒りもうつくしい。すべてうつくしきエネルギーでしかない。怒りを受け入れるのってなんでそんなにたいへんなことなんだろ。基本的に怒ることをネガティブなこととして刷り込まれてるから仕方ないんだけど。この刷り込みから抜け出さなきゃならない。怒るのは悪いことじゃないのだ。喜びを表現するのと変わらないのだ。

表現せずに内側に溜めるタイプ(←私)も、すべてブチまけるタイプも、怒りをうつくしきエネルギーのアートだと認めていなければやってることは一緒。つまり、怒ってる自分を悪者扱いしてるってこと。だいたい、正しい表現方法をだれも教えてくれないから、表現の仕方にも問題がある。

怒ってる人を冷静に観察すると、すべての人がその根底に表現されていない抑圧された感情を持ってる。最近の症例だと、「認めてほしい」「ありがとうって言ってほしい」が怒りの根底に横たわってた。「自分はこんなにやってるのにどうして認めないのだ」という悲しみにも近い怒り。だったら、それを素直に表現すればいーのに。
「ありがとうと言ってくれ」
「よくやってくれたと言ってくれ」
「もっと感謝してくれ」
「いつもいっぱいやってくれてありがとう。そんなあなたが大好きですと言ってくれ」
と、素直に表現すれば話は早いんだが、それが
「あんたは何も分かってない」
「あたしばっかりこんなにやっている」
「わたしは頑張っている」
「あんたは何もやらない」
とかにすり替わってる。めんどくせーw

上記のような話をある人と延々してみたんだけど、その人が、翌日、普通に「あの人、怒るのは良くないことだってようやくわかったんだよ」なんて言ってるのを聞いて、(ああ。やっぱ怒りを受け入れるのってたいへんなんだな)と改めて思った。orzガク〰‼ やわ。

いやー。ほんと。現地球において、怒りは最大のテーマだと思いますわ。怒りと折り合いつけられてる人が少なすぎる。どんなに穏やかな人でも、怒ってイラついてる自分を認めてないのがビシビシ伝わってきますんで、そのたびに、とても荒く鋭いエネルギーがぶっ刺さるので、まぢ痛いw。世界中のすべての人が、怒るのって悪いことじゃなかったんだ(゚∀゚)!!って気づいたら、世界は一瞬で平和になると断言できる。

でもまあ、怒ってる人がいると疲れるのは、つまり、わたしにとって怒りというエネルギーは、未だ中立ではなく、ネガティブなエネルギーとして存在してんだろう。たぶんわたしの中に解放しきれてない何かがあんだ。そうとしか思えない。とりあえず、自分がイラついたらその怒りの根底にあるものは何なのかを分析するといい。自分の本当の欲求が見えてくる。ちなみに、わたしが最大イラつくのは、誰かに命令されるとき。自由を奪われるときだ。みんな、健全に怒って生きよう!