長編(原稿用紙17枚分)|ママ死んじゃったものがたり





1/20に3週間の昏睡状態を経て大大大好きすぎるママが死んじゃいました。信じられないけど。一緒に住んでないから実家帰ったら会える氣がしてならないよね。不思議なことがいっぱいで。すべてがシンクロしてて、なんか人生ってほんと不思議に満ちてておもしろいなあと思うのです。だいぶ長くなると思うけどきっとおもしろいからおひまな時にでも読んでみて。

肉体の死を迎えた日

しかしどこから話そう。倒れた日の話は以前書いたので死んだ日からのことを書こうかな。クリスマスから昏睡状態だった母。延命治療だけはしてくれるなといってたので、病院にお願いして点滴最低限、血圧の調節もやめてもらって2週間くらいたった頃だったでしょうか。
「心拍数がどんどん下がってるから今日あたりやばいと病院から連絡があった」
と1/20(木)妹から電話がきた。そして夜になって
「心拍数が30くらいになったから病院行ってくる」
と再び連絡があった。病室から15分おきくらいに妹が心電図のモニターの写真を送ってくる。34だったのが次の画像では19になっていた。心拍が3秒に1回ってことになんだか不思議な感覚を覚えた。それが8になって最後に0になった。その間1時間もなかったと思う。人って自然に死ぬとこんなふうにゆっくり死ぬなんだと初めて知った。

夜の11:13だった。人は引き潮で死ぬという説があって、ちょうど12時ぐらいが引き潮だったのでそのタイミングなんだろうなと思ってた。3週間、生きてるのか死んでいるのかわからない状態だったので、妹含めて心の準備はできていたけど、肉体の死を迎えると改めて本当にいなくなっちゃうんだというかなしみに襲われた。けど、かなしみに浸ってる間もなく、病院から「葬儀屋に連絡してくれ」といわれた。こんな時間にやってんのかよと、検索で出てきた葬儀屋にとりあえず電話してみたらふつーに営業してた。葬儀屋って24時間営業なのね。そんなことも身近な人が死なないとわからないもんだ。そのまま葬儀屋に実家まで運んでもらったんだけど、その日は大雪で実家の坂道ツルツルで死人を運ぶのめちゃんこ大変だったらしい。翌日実家に着いて母と対面した。家に帰ってきてなんかほっとしてるような母を見たら涙が止まらなかった。ところでこの葬儀屋ほんとにすばらしかった。葬儀屋ってみんなこんなに手厚いの?仕事上まあそうなんだろうけど、ほんとに暖かい葬儀屋だった。しかも激安。葬儀屋にぼったくられたなんて話も聞くけど、ありがたし。

母は無宗教だったのでいわゆる葬式はしなかった。母が一番大事に思っていた双子の甥(わたしの従兄弟)ファミリーと母のいとこだけ来てもらって自宅でプチセレモニー。ほんとに色んな人がお花を送ってくれて、リビングが母の大好きなかすみ草とアネモネだらけになった。一般的にはお通夜といわれる日はただの酔っ払いの大パーティーになった(笑)。といっても8人中酔っ払いは3人だけだったんですけど。酔っ払いの破壊力はんぱない。母のイトコの酔っ払いは
「みーちゃん、俺今日は泣きに来たのになんでこんなことになってんだ〜〜〜!!」
って泣きながら笑ってた。みんなで「アイラブユー!!アイラブユー!!」って連呼しながら乾杯した。こんなお通夜サイコーだと母も思ったはずだ。破天荒な親族でよかった(笑)。

私のイトコの奥さんはうちに来たことないんだけど、こんなことを言っていた。
「昨日夢にみちこさん出てきたの。わたし夢は白黒ばっかりなのに、昨日見た夢はカラーで、このリビングのまんまでお花いっぱいだった。みちこさんと何か話をしてたんだけどほとんど覚えてなくて、ひとつだけ覚えてるのが“わたし本当に死んじゃったの?”って聞かれたこと」
母は3週間昏睡状態だった。昏睡状態って一体なんなんだろうと考えていたら、ちょうど読んでいた本に答えが書いてあった。以下本の抜粋

さて、特に人生の初期や末期に何らかの重大局面や危機を体験した場合、それが人格存在と肉体との一体性を撹乱させ、そのため当人の意識が肉体を出てしまうことがあります。その先どうするかの選択肢は豊富にあり、そのいずれかを選ぶことになります。意識が肉体から完全に出てしまい、もし、肉体意識の方にも衝撃が及んでいる場合は、肉体が昏睡状態になることがあります。

かんたんにいうと、なんらかの衝撃(母の場合は窒息)で意識が肉体から出てしまい、肉体にもダメージが及んでいると昏睡状態になる。ということだと理解した。そして昏睡状態の間、意識はさまざまな勉強をするらしい。母は死んだらこれにて終了!と思ってる人だった。死んだらすべてが終わると考えてる人にとって、死はかなりの恐怖を伴うものだと思う。母はつね日頃から死にたい死にたいと言っていたけど、じっさいは死ぬのが怖かったに違いない。昏睡状態の3週間、母は死ぬのは恐ろしいことではないこと、死んでも意識は残ることを勉強したんだと思う。

母が死ぬ前日、妹が瞑想中に母からメッセージが来たといっていた。
“納得した”っていわれたんだけど、どういう意味だろう」
と妹は疑問に思っていた。翌日母が死んで、お世話になったホメオパシーのエルマー先生に連絡したらその返信に答えがあった。
「きっとお母さんのたましいにとっても、お別れを“納得”するまでの大事な3週間だったと思います。毎日子供に会って、お互いに準備して、今になって自由に大きな旅を続けるようになりました。よかったです。お母さんに頭を下げて見送ります。」

こうやって死者はかならずなんらかの方法で交流してくる。妹たちにメールを見せたら「そういうことだよね!」って納得してた。そして多分納得はしたものの、最後に確認したくて母はイトコの奥さんの夢に出てきたんだと思う。本当に死んじゃったの?!って。以前ブログにも書いたけど、死後の世界はそれくらい今わたしたちがいる世界と見分けがつかない世界なんだろう。

母のかなしみと向精神薬

母は75歳で死ぬと言いつづけてたんだけど、まさかの夢がかなってしまった。母にとって人生は本当にかなしみと寂しさの連続だった。母は32-3歳くらいで大好きな姉を亡くした。10歳離れた姉だったので父母との別れもわりと早かった。そして離婚も経験した。子どもだけが母の生きがいだったのに、わたしたちも高校卒業したらみんな海外に留学していなくなった。
「みんな突然いなくなっちゃうのよ・・・」
何年か前に母が言ってたことが忘れられない。実家に帰ったときにみつけたノートには、子どもたちが留学していなくなったことが寂しくてしかたがないと書いてあった。親の心子知らず。20代なんてほんとなんも考えてなかったからね。母はいつも大きすぎる悲しみを抱えたまま生きていたけど、子育てが忙しすぎるし誰も助けてくれない、自分でなんとかするしかなかったから泣いてるヒマはなかったといっていた。こうして母は絶対に泣かない人になってしまったので、わたしも泣くのはいけないことなんだと刷り込まれてしまった。

いつも悲しみを抱えていた母にとって、孫が生まれることは人生最大級の喜びだった。家に赤ちゃんを連れて帰った時の母の顔が忘れられない。絶対泣かない母が涙をぽろぽろ流しながら赤ちゃんを抱っこして
「信じられない。かわいい!!!」
っていってた。75で死にたいってずっといってたのに、孫が生まれてから
「わたし100まで生きるかも!」
っていうようになった。母の状態を知らないみなさんにはわからないと思うけど、死ぬことだけがたのしみだった母のこの発言にわたしたちがどんだけびっくりしたことか。そして昏睡状態に陥ってしまった自分を見て相当焦ったと思う。

若かりし頃のママがおしゃれすぎて。死ぬほどモテてたらしい。

母はどう対処してよいかわからなかった悲しみのストレスにより不眠になった。30代半ばから睡眠薬飲んでいたといっていたけど、姉の死を機に飲むようになったんだと思う。そして50代で離婚してから母の状態はどんどん悪くなった。精神科に通うようになり、うつ病と診断され、大量の薬を処方されるようになった。母は何十年も薬漬けだった。わたしたちは向精神薬が人間をどういうふうに変えるかを何十年もかけて目の当たりにしてきた。その変化は恐ろしいとしかいいようがない

 

 

母は本当に超美人でチャーミングな人だった。背も高くておしゃれで、学校に授業参観来ると目立ちすぎてちょっといやだったくらい。それが薬を飲みはじめてからブクブクに太り、どんどん年老いていった。老化がめちゃめちゃ早かった。薬のせいもあるけれど、そのほとんどは抱えすぎたストレスのせいだと思ってる。あんなにキレイだった母が信じられない速度で老化していった。見た目の変わりようはもちろんだけど、性格も変わってしまった。笑顔が消えた。いつも鬱々として1日のほとんどをベッドの上で過ごすようになった。母が唯一感情を表現するのは、溜め込んだ怒りを爆発させるときだけになった。

特に睡眠薬を飲むと目の焦点も合わないしろれつも回らない。謎の行動も増えた。よく転倒するようになった。老人の転倒の原因のほとんどはさまざまな薬(向精神薬や降圧剤など)のミックスだと確信してる。母はボケと正常の狭間を何十年も生きていた。薬を飲めば飲むほどウツと診断されたその症状そのものになっていった。

向精神薬の恐ろしさはわたしも8年くらい飲んでいたのでよく知っている。あれは長期間服用するものでは絶対にない。ほんとに精神科だけは全国回ってすべて爆破したいと心から思ってる。ただ、ひとついえるのは、わたしはじっさい薬のおかげで乗り越えた部分はあるということだ。短期間なら必要なケースもあるとは思うんだけど、今の精神科医の薬の処方は100%間違ってると断言できる。あんなもの何ヶ月も何年も飲むもんじゃない。あなたがうつ病だと診断されたなら、長期間飲めば飲むほど、どんどんもっとひどい鬱になる。人格も変わる。見た目も変わる。たまに実家に帰るといつもベッドに横たわっている母には100%お化け憑いてると思った。グレーの雲がつねに母を覆ってた。

なんとか薬を減らそうとちょっとはマシかと思える精神科を点々としてみたけど、精神科なんて全部一緒だ。ということに25年くらい経って氣づいた。ほとんどの心療内科医の目はうつろだ。そりゃあストレスまみれのお化け憑きまくりの患者と毎日かかわってたらそうもなるだろう。もう精神科に頼ることは100%できないと分かった。そこでわたしたち姉妹はある妙案を思いついた。

多分きっとこのメンズらしき人からのラブレターらしきものが遺品にあった(笑)。

不思議な復活劇

ある日母が隠れて処方以上の量を飲んでいることが発覚した。母は薬の飲み過ぎでよく転ぶようになっており、去年2月に入院したのも薬でラリってたからだと思ってる。
「あんたが転んで迷惑かかるのはわたしたちなんだから、薬は全部わたしたちが管理します」
ということになった。処方どおりの量を妹が毎日母に渡すシステムにしたんだけど、わたしの独断と偏見で、睡眠薬以外の薬を全部プラセボ(偽薬)に変えてやった。

向精神薬は通常段階的に数ヶ月〜1年くらいかけてやめるものだ。急にやめると離脱症状でえらいことになるからだ。わたしは一年くらいかけてやめた。なんとかやめ方はないかと、母のためにうつみんにも会いに行った。(ってゆーか、怖いもの見たさで見に行っただけってゆーのもある。笑)うつみんにはっきりこー言われた。「本人がやめる氣ないなら絶対無理」。いやその通りなんだけど、わたしたちはプラセボという強硬手段を取った。こんなに急に全部の薬をやめたらどうなるのか誰にもわからなかったから一か八かの賭けみたいな感じだったし怖かった。

わたしはつねに黒い!

結果、わたしたちは昔の母を取り返した。薬をプラセボに変えてから数ヶ月経ったある日(去年の春頃かな)母が電話してきた。
「今日はエリが喜ぶことを伝えようと思って。わたし、うつ病治ったと思う。頭のモヤが突然取れたのよ。普通の人はいつもこんな氣分で生きてるんだね。何十年も無駄にしたわ」
信じられないことが起きていた。うつ病が母のアイデンティティみたいになっていたし、母はうつ病であることを無意識に利用していた。まず見た目が変わった。いつも怒っているか岩のように固まっていた表情に笑顔が戻ってきた。妹の妊娠のニュースに大喜びで、いつ見てもニコニコするようになった。毎日妹たちと近所に散歩に行くようになった。薬のせいでほんとうに歩けなくなってきて、足が前に出ないからつねに千鳥足だったのに、わたしが帰った時は一緒に走った20年ぶりに料理もするようになった。わたしが実家に帰るといったらミートソース作って待っててくれた。

ほんとに信じられなかった。とにかく意欲的になってこのまま母はすっかり元氣になって最低でも85くらいまでは一緒に過ごせると思ってた。母は東京にともだちが多いので年に2回くらいは東京に行ってたんだけど、具合が悪すぎて寝たきりだったのでもう6-7年行けなくなってた。それが去年は一人で新幹線乗って東京に来て、久しぶりにともだちに会って茅ヶ崎にも泊まりに来てくれて、うちではコロッケまで作ってくれた(涙)。

この20年くらい、正直わたしたちのお荷物化の様相を呈していた母がすてきなやさしいおばあちゃんに変身して、もっと一緒にいれると思ってた矢先のベーコンパン誤嚥事件だったから、まぢでびっくりした。自分の母親が脳死を宣告されるなんて考えてもいなかった。

人は自分の死期を知っている

でも、ママの死を経験したことで改めて分かった幸せなじじつがある。それはわたしはどれほど優しさにあふれた人に囲まれてるかということ!ママがいなくなったかなしみと同じくらいそこに泣ける〜!!親戚、母の友人、自分の友人たちから毎日のように励ましのメッセージが来て、何かできることあったら遠慮なくいってね。って。みんな本氣でいってくれてた。みんなのやさしさに本当にどれほど助けられたかは表現の方法がみつからない。

何が不思議って、かたや母が死んでかなしみに暮れてるわたしたちの横を見たら、生後数ヶ月のあかちゃんが泣いたり笑ったりしてる事実。どれだけ考えてもこの赤ちゃんが産まれたタイミングは奇跡でしかない。母の入院中もこの子がいてくれたことでどれだけ心が安らいだことか。赤ちゃんパワーはんぱない。一番下の妹が45歳なニシカミ家に赤ちゃんが生まれるなんてまぢで誰一人想像してなかった。ママはこの子がお話できるようになるのを心からたのしみにしてた。一緒に過ごしたのはたった2ヶ月だったけど、母にとって最高にしあわせな2ヶ月だったと思う。

母はわたしたち姉妹が仲良くいてくれることをいつも願ってた。お互いがどう思ってたかは知らないけど、母は2番目&3番目が仲よくないと思っていて、いつもわたしに3人で仲よくしてほしいといっていた。当のご本人も妹との関係にギクシャクしている部分があったので、妊娠が発覚して妹が実家に戻ると聞いたとき、わたしは正直(ややこしー!)と思ったんだけど、ふた開けてみたらなぜかみんなちょー仲よしになってしまった。

かわいい。

人間は生まれる日も死ぬ日も自分で決めて生まれてくる。75で死ぬと言いつづけてきた母はあと1ヶ月で76歳になろうというこの日を死ぬ日と決めてきた。きっと人間は意識の奥底で自分がいつ死ぬかを知っている。24時間体制でわたしたちの心配ばかりしてた母。家族みんなが仲よしで、孫まで生まれて、母は突然とっても安心したんだと思う。もうこれで子どもたちの心配せずに安心して死ねるって思ったんだと思う。

去年の秋、わたしが実家に帰った時の母は摩訶不思議だった。いつものように玄関入ってただいまー!っていったら、わたしの顔を見て母が突然泣き出した。みんなびっくりして、どうしたの?!大丈夫??っていったら、涙をぽろぽろ流しながら「えりが帰ってきてくれてうれしい!」っていった。わたしは母が泣いたところをほとんど見たことがない。その母が涙を流しながらわたしが帰ってきたことを喜んでいた。母は心の奥深くでもうすぐわたしと会えなくなることをわかっていたのかもしれない(涙)。


ママのお姉ちゃんの名古屋ちゃん。会えたかな。

母は死んでからめちゃめちゃコンタクトしてきます。一年前に亡くなった友人もそうだったけど、死者はいろんな方法でわたしたちにコンタクトを取ろうとします。死者とのもっとも簡単なコミュニケーション方法は数字です。わたしは母が死んでから(いるなら誕生日の数字見せて!)ってお願いした。母の誕生日は2月24日なんだけど、そこからの224アピールといったら半端ない。ありえないタイミングで224を見せてくれます。一番おもしろかったのは妹の話かな。ネットでなんか登録するときに、携帯電話に確認番号みたいなのがかかってくるやつあるでしょ。妹が携帯に出たら「お客様の確認番号はゼロ ニ ニ ヨンです」っていわれたらしいです。亡くなった方とコンタクト取ってみたい人はやってみて。ぜったいに見せてくれるから。

自分が先に死なないかぎり、親の死ってだれもが100%経験する行事。ママが死んで思ったのは、感情のインナーワークやっててほんとによかったってこと。母との関係において、わたしが無意識に引きずっていたわだかまりや変な後悔がいっさいない状態にしとけたことがなによりよかった。これやってたおかげでわたしにとって母の死はとてもうつくしい経験となりました。

最近死後の世界についていろいろ書くことが多いですが、そのほとんどが母が昏睡状態になってから怒涛のようにやってきた情報です。死は肉体の死でしかなくて意識がなくならないことは知っていましたが、死後の世界についてより理解を深められたこともよかったことのひとつです。死は人間が一般的に思っているようなものではありません。死はまったく怖いものではないし、本当はとてもうつくしいものです。わたしの今1番のたのしみは死んで母に会うことになりましたわ。そして、母がなぜいつも早く死にたいといってたのかをちょっと理解できるようになったかも。人生っておもしろいねっ!