ダメなときこそ自分のマナと向き合う。ハワイ育ちのミュージシャンChiyoTia。

ダメなときこそ自分のマナと向き合う。ハワイ育ちのミュージシャンChiyoTiaインタビュー

Interviewed by Eri Nishikami

私がChiyoTiaと初めて出会ったのは三島のTorattoria Mareというお店でのライブ。見た目はすっかり日本人なのに、まず、ChiyoTiaっていう名前が謎だったし、歌の合間のトークを聞いていると、ちょっと懐かしいハワイ弁の英語が聞こえてくるわけです。あぁ、この子、ハワイの子なんだ。でも日本語上手だわ。それにもまして歌が上手いわ!というのが第一印象。とにかくね、声がステキなのです。歌うために生まれてきた声!っていう声。一緒にプレイしていたギタリストの方が、濱中祐司という日本を代表するギタリストだということも知らず、読めてない代表の私は演奏が終わったら、思わず“じょうず~!!二人とも!”って叫んでた。

というわけで、今回のインタビュー、まずはChiyoTiaが何者なのか、というところから調査開始しました。

「私は純日本人。おばあちゃんは大分出身の日系一世の移民で、ビジネスをしたいと思って女一人でハワイへ。最初は日本から持って行った着物や洋服の生地をバッグにリメイクしたのを販売していて、その後ウィッグの販売を始めて白木屋でお店をオープンするまでになったんだけど去年年末に亡くなったの。母は2世で、ロスに住んでた父がバケーションで来ていたハワイで出会って。二人はその後日本に帰って、私が生まれて3歳までは東京に住んでた。おばあちゃんは自分のビジネスを継いでくれる人を探していて私に継いでもらいたいってことで、私は祖母の養子になったの。20代半ばまでハワイに住んでいたんだけど、体を壊して治療のために2000年に日本に帰国してからはずっと日本。」

それにしてもChiyoTiaは日本語が上手だね。
「おばあちゃんとは日本語で話していたし、彼女が日本語のTV番組のナレーションをやっていたことがあって、仕事の台本とか書類を見ながら勉強してた。私は日本人学校に行ってなかったから、ハワイ報知を読んだりね。日本語をしゃべる親戚もいたので会話はしていたんだけど、日本に突然帰ってきた時はやっぱり結構緊張した。」
ほとんど外人のChiyoTia、日本で初めて就職したのはアパレル系の会社。海外マーケティング担当で、海外に日本のブランドを売り込むのが彼女の仕事。当時まだ日本語は今ほど流暢ではなかったけれど、海外担当だったので問題はなかったそう。休みもなかなか取らせてもらえない日本の会社、ハワイに帰りたいと思わなかったのかしら。

「ハワイにはもちろん帰りたかったけど、私は日本で生まれた事に誇りをもっているし、私の祖母はゼロから一人でハワイでビジネス始めて、ビジネスを成功させてハワイで私が住んでいたマノアの家も建てた。とても悲しかったけど、自分の中で彼女がもういない事を受け止められたし、ハワイに私が帰れる場所がなくなったので、今いるべき場所は日本なのかな、って思えるようになった。今までは日本がダメならハワイに帰れば良いや。って思ってたけど、今はここで頑張ろうと思ってる。」

その会社で働いていた2年弱、英語を話せる人が他にいなかったためかなり忙しかったとか。でもやっぱり歌が好きで仕方なかったChiyoTiaは会社で働いている間も暇をみつけてはジャズバーで歌っていました。結局こういう人って、もう生まれた時から運命が決まってるっていうか、それに気づいたのっていつだったのかが気になるわけです。